坂本龍馬脱藩の道
−坂本龍馬ゆかりの地 in 高知県中西部−
坂本龍馬脱藩の道(梼原町)
- 幕末の英雄・坂本龍馬は、同志澤村惣之丞(さわむらそのじょう)と共に、文久2年(1862年)3月24日に土佐(高知)を出奔し、翌25日に梼原に到着しました。
- その夜、梼原の勤王の志士である那須俊平、那須信吾父子の家に宿泊、26日に俊平、信吾の道案内により、宮野々番所を抜け、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて、予土県境の
韮ヶ峠を越え、伊予の国(愛媛県)に脱藩しました。
- 信吾は、韮ヶ峠より引き返しましたが、俊平は同行し、小屋村(西予市:旧野村町)、
水ヶ峠(大洲市:旧河辺村)を経て泉ヶ峠(内子町:旧五十崎町)に宿泊。27日、宿間村(内子町:旧五十崎町)に着きました。
- 俊平はここから引き返し、龍馬、惣之丞は船便にて長浜町へ、その夜冨屋金兵衛宅に泊まり、
28日船で2日を要して三田尻(山口県)へ到着しました。
- 幕末には、吉村虎太郎を始め10数名の土佐勤王党の志士たちが、
龍馬とは別のルート九十九曲峠(くじゅうくまがりとおげ、愛媛県西予市城川町川津南〜高知県高岡郡檮原町宮野々の間の峠)を
越えて脱藩していきました。
坂本龍馬脱藩の道(梼原町)周辺観光案内
- 【坂本龍馬脱藩の道・観光おすすめコース】
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千枚田〜(徒歩30分:3km)→太郎川公園〜(徒歩20分:2km)→那須俊平・信吾邸跡〜(徒歩10分:1km)→
六志士の墓〜(徒歩10分:0.5km)→旧掛橋和泉邸〜(徒歩10分:1km)→神幸橋(みゆきばし)〜(徒歩20分:2km)→
維新の門群像 〜(徒歩40分:4km)→宮野々番所跡〜(徒歩2時間:8.5km)→茶や谷の茶堂〜(徒歩15分:0.5km)
→松ヶ峠番所跡〜(徒歩2時間10分:6km)→韮ヶ峠(愛媛県境)
維新の門
- 薩長同盟締結や大政奉還など明治維新に活躍した坂本龍馬を含む、地域ゆかりの八志士を顕彰した群像です。
- 澄んだ瞳、躍動感溢れる姿、その風貌からは大いなる使命感に燃える志士の決意が偲ばれます。
- 左から前田繋馬、那須信吾、吉村虎太郎、中平龍之助、掛橋和泉、澤村惣之丞、坂本龍馬、那須俊平の八志士。
- 志士たちが歩いた「維新の道」は昭和61年に「日本の道100選」に選定されました。
韮ヶ峠(にらがとうげ)
- 道案内の那須信吾との別れの地、韮ヶ峠から泉ヶ峠を越える宿場までの街道「梼原街道(津野山街道)ー韮ヶ峠越」。
- 坂本龍馬をはじめ、土佐勤王党、天誅組、忠勇隊に参画した梼原出身の志士、吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、掛橋和泉、
中平龍之助、前田繋馬たちは維新を夢見て決起し、大いなる使命感に燃えながら野越、神根越、
化粧坂、国境の九十九曲峠、そして韮ヶ峠への道を幾度となく往来したそうです。
掛橋和泉邸
- 神職の身でありながら、家財を費やし脱藩を志した多くの同士を支えた、掛橋和泉の邸宅。
- 幕末には、多くの同志が立ち寄り、時局を談じたと伝えられています。
- 茅茸き屋敷や、危難時に使う屋根裏の隠し屋敷(姫隠しの間)など、当時の面影もそのまま残っています。平成10年、現在地に移築されました。
那須俊平・信吾邸跡
- 龍馬脱藩の際に宿泊した邸跡。俊平(父)、信吾(婿養子)の案内により脱藩は成功した。
- 俊平は土佐一の槍の達人で長州忠勇隊に入隊後、禁門の変で戦死した。
- 信吾は、龍馬と高知城下の道場で共に剣術修業に励んだ仲で、土佐藩佐幕派の吉田東洋を斬り脱藩、天誅組を挙兵するも戦死した。
六志士の墓
- 土佐藩を脱藩し、新しい時代の幕開けのために奮闘、最後は壮絶な志を遂げた梼原ゆかりの志士たちの分霊が祀られています。
- 吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、中平龍之介、掛橋和泉、前田繁馬の六志士の墓は、梼原町の保護史跡に指定されています。
茶や谷の茶堂
- 梼原町には、現在も茶堂(ちゃどう)と呼ばれる東屋が遺っています。
- 昭和三十年頃まで、里人たちがお茶番をして、地元の人や旅人にお茶をふるまい交流していました。
- 暑い夏には、今でもお茶の接待がされているそうです。ちょっと一休みに、立ち寄ってみられてはいかがでしょうか?
坂本龍馬脱藩の道(津野町)
- 標高554メートルの朽木峠(くちのきとうげ)を境にして、佐川町と旧葉山村を結ぶこの道は、
藩政時代から明治まで幹線道路として人々が往来していました。
- 文久2年(1862年)3月24日、高知を出立した坂本龍馬は、翌25日の早朝小雨の降る中、この朽木峠を駆け抜け土佐藩を脱藩していきました。
- 今は地元の人でもほとんど使わなくなった朽木峠ですが、日本全国の熱烈な龍馬ファンが龍馬を偲び訪れる姿は途絶えることはありません。
- 鬱蒼とした森の中にある朽木峠には、関所を模した門が設置されています。
龍馬脱藩の道・葉山街道(朽木峠越え)
- 津野町と隣接する佐川町斗賀野から津野町三間川へと続く道は、幕末の志士・坂本龍馬が土佐藩を脱藩する際に駆け抜けた道です。
- 鬱蒼とした森を歩き朽木峠(くちのきとうげ)に到着すると、 そこには関所を模した門があります。
- ここから先は津野町の領域です。朽木峠越えは、徒歩で片道約2時間のコースです。
龍馬脱藩の道・葉山街道(布施ヶ坂)
- 津野町の桂地区は、通称「布施ヶ坂」と呼ばれていて、地区内の山の急斜面には茶畑が広がっています。
- 布施ヶ坂コースは、この茶畑の中をつづら折りに続く道に沿って歩くコースで、
道中は爽やかな風の吹く絶好のウォーキングコース(片道約1時間)です。
坂本龍馬ゆかりの地 in 高知県中西部
- 高知県中西部(特に梼原町、津野町、須崎市、中土佐町、一部佐川町含む)における坂本龍馬ゆかりの地を紹介しています。
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土佐藩砲台跡(須崎市)
- 幕末、異国船の来航があり、海岸防衛のため須崎市に建てられた砲台跡地。
- 須崎には、西・中・東の3箇所に台場が築かれましたが、現存しているのはこの西台場のみです。国の史跡に指定されています。
- 慶応3年(1867年)、イギリス水夫殺害事件で公使パークスが須崎港に入港した際に、龍馬も来航して交渉を見守ったようです。
首切り地蔵(須崎市)
- 幕末、発生寺(ほっしょうじ)の住職であった智隆和尚(ちりゅうおしょう)は、勤王の志厚く、土佐勤王党名簿に載っている人物です。
- 発生寺は、近隣の郷氏や庄屋たちの密会の場となっていました。
- 坂本龍馬が訪れたおりに志士たちと熱論になり、境内に安置されている石仏地蔵を木刀で一刀にて打ち落としたと言い伝えられています。
古道「添蚯蚓(そえみみず)遍路道」(中土佐町)
- 嘉永元年(1848年)、坂本龍馬14歳の時、この「添蚯蚓」を通って四万十川の改修工事で幡多へ行き、
勤王の指導者として知られる樋口真吉と出会ったと言われています。
- 四国八十八ヶ所霊場の36番札所青龍(しょうりゅう)寺と37番札所岩本寺の間に位置する、
中土佐町久礼から四万十町床鍋の七子峠(ななことうげ)に抜ける遍路道「添蚯蚓(そえみみず)」。
- その奇妙な名前は、ミミズがはった跡のようにうねうねと曲がりくねっていることから名づけられたと、
約300年前の「土佐州郡誌」に書かれています。約5kmの古道は峠越えの難所です。
- しかし、江戸時代は、高知から幡多に行く往還(現在の国道)として、最重要の役割を担っていました。
- 土佐藩主の山内氏も添蚯蚓を通り、幡多まで巡検に赴いています。
武市半平太像(須崎市)
- 県立公園に指定されている横浪黒潮スカイライン。
その中間に、全長6メートルの武市半平太(たけちはんぺいた)像が雄大な景色の中、堂々と立っています。
- 銅像の後ろにある石碑には、幕末の動乱期に武市半平太と共に活躍した志士たちの名前が刻まれています。
- リアス式海岸の美しい景色を眺めながらのドライブは爽快♪
青山文庫(佐川町)
- 坂本龍馬の画像や吉村虎太郎が土佐藩脱藩の際に詠った詩、中岡慎太郎の手紙、
西郷隆盛の文など幕末の動乱期に活躍した志士たちの貴重な資料が多数展示されています。
- 土佐佐川出身の志士として活躍し、明治政府の宮内大臣を務めた田中光顕氏(雅号:青山)やその子孫から多くの資料が寄贈されています。
坂本龍馬 33年の生涯
- 天保6年(1835年)11月15日
- 高知城下の郷士坂本八平直足の次男として生まれる。
- 弘化3年(1846年)12歳
- 母・幸が死去
城西小高坂村楠山塾に入門・退塾。
- 嘉永元年(1848年)14歳
- 日根野道場にて小栗流剣術を学ぶ。
- 嘉永6年(1853年)19歳
- 日根野弁治より「小栗流和兵法事目録」一巻を伝授される。
- 3月17日 江戸へ剣術修行に出る。京橋桶町北辰一刀流の千葉道場に入門、沿岸警備に出る。
- 浦賀に黒船来航、アメリカのペリー提督が開国を迫る。
- 安政元年(1854年)20歳
- 6月23日 江戸より土佐へ帰国。
- ジョン万次郎の見聞録「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」の著者・河田小龍(かわだしょうりゅう)を訪ねる。
- 安政2年(1855年)21歳
- 12月4日 父・八平死去。
- 安政3年(1856年)22歳
- 8月20日 再び剣術修行を許され江戸に再遊学。
- 安政5年(1858年)24歳
- 1月 「北辰一刀流長刀兵法」を授かる。
- 9月 江戸修行より土佐へ帰国。
- 文久元年(1861年)27歳
- 8月 武市半平太(たけちはんぺいた)が「土佐勤王党」を結成、龍馬も加盟。
- 文久2年(1862年)28歳
- 1月14日 武市半平太の使者として長州萩に久坂玄瑞(くさかげんすい)を訪ねる。
- 3月24日 澤村惣之丞(さわむらそのじょ)と共に脱藩、長州下関へ。
- 10月 千葉重太郎と勝海舟を訪問、門下生となる。
- 12月5日 江戸越前邸で間崎、近藤と共に松平春獄(まつだいらしゅんがく)に謁見、海防策を具申する。
- 文久3年(1863年)29歳
- 1月16日 勝海舟のはからいにより、龍馬の脱藩罪が許される。
- 5月16日 勝海舟の使者として福井の松平春獄を訪問。神戸海軍塾創設資金の5千両を借用する。
- 10月 海軍塾塾頭となるが、帰国命令を拒否したため再び脱藩の身となる。
- 元治元年(1864年)31歳
- 4月5日 土方楠左衛門(土方久元)と中岡慎太郎と薩長同盟を策し賛同。
- 5月 亀山社中を長崎で設立。
- 8月中旬 井上・伊藤、英国商人グラバーから小銃を購入し、下関に運ぶ。
- 慶応2年(1866年)32歳
- 1月22日 小松帯刀(こまつたてわき)・西郷隆盛・桂小五郎・龍馬会談、「薩長同盟」成立。
- 1月24日 伏見の寺田屋において伏見奉行所の捕史に襲撃され負傷。
- 2月 お龍と結婚
- 3月5日 鹿児島へ新婚旅行
- 慶応3年(1867年)33歳
- 3月下旬 龍馬と中岡の脱藩罪赦免。
- 4月上旬 土佐藩により海援隊設立、隊長に任命される。
- 4月23日 いろは丸、備中福山沖で紀州藩明光丸と衝突し沈没。
- 6月15日 夕顔丸にて「船中八策」を記し、土佐藩後藤象二郎により大政奉還白案として前土佐藩主山内容堂候へ。
- 9月29日 6年ぶりに坂本家に帰る。
- 11月15日 近江屋(おうみや)で襲撃され、中岡慎太郎と共に暗殺される。(近江屋事件)